春、夏、秋、冬

掌編小説

「あたし、気になってることがあるの。」

 彼女のぷっくりと艶やかな唇より発せられた、その言葉を耳にした瞬間、私の心臓はドキリと激しい音を立て、その危険信号は、直ぐさま私の頼りなげな脳細胞に、ピピピ、伝達せられたのだった。不味い。私はアンニュイな面持ちをそのまま崩さぬように、「ちょっと」と言って、やや不気味とも言える引きつった笑みを浮かべながら素早く立ち上がると、脇目も振らずに御不浄へ向かった。もしや、いや、そんなはずは。……

 私は恋人といっしょに、馴染みの居酒屋で「憩いのひととき」というやつを堪能していた。別段、腹が減っているわけではなく、酒が飲みたいわけでも、いや、飲みたいどころか、私は恥ずかしながら下戸に近いような種族でして、……ま、良く言えば経済的。悪く言えば、……いや、言うのは止そうよ。ひとつでも悪いことを言ってしまうと、次から次へと、出てくる出てくる。私はどんどん泥沼だ。自己嫌悪という深い沼にはまって出られなくなってしまう。……ええと、まあ、そんなわけで、健康生活。酒も煙草もいたしませぬ。おまけにベジタリアンにございます。そんな私がこの店に例のごとく入り浸っている理由は、……おい、もうそろそろ察してくれ給え。判るだろう? そう、その通り。同席している彼女(が食事をしている様を微笑ましく見守るだけ)である。私は彼女に惚れている。本当は色んな店に行きたい。出かけて行って、彼女を連れた私の男前なところを皆に見せたい。いや、単に彼女を見せびらかしたい。しかし、しかしなのである。知らない店に入って、その店に慣れていないがために、私がしくじったりしたら、格好悪いだろう? 読めないメニューがあったり、私よりも強そうな店主が眼の前に現れたりしたら、私は途端に腰が低くなってしまい、へえ、さようで、そうござんす、などと非日常的な相槌を打ってしまうに決まっている。そんなところを愛する女性に見られたい男は、その時点で男ではない。だから行かないのである。私は今日も、この、いつもの居酒屋で、私よりも腰の低い店主に、「ねえ、彼女の好きそうなものを出してあげて。僕は美味しい野菜を。それにしても最近は野菜も高くなって困るよ、ねえ、君。カリフラワーなんて高値すぎるものだから、ちっとも食べる気にならないものね」なんて、訳知り顔でオーダーするのである。 

 私は御不浄の扉をそっと開けながら、この場合はノックをした方がよかったかしら、と考え、しかし既に開けてしまっているのだから、と例の不気味顔でニタリ笑うと、何故か一礼をしてから、個室に入った。

 入って鍵をかけると直ぐに、ポケットから取り出した眼薬を両の眼にポトリ、ポトリ。そして精一杯に瞬く。両眼が充分に潤ったところで、大きな鏡に向かい、先ずは眼脂のチェック。問題なし。肌の状態、可。髪の毛が跳ねているのか? ああ、それはいつものことだ。爪、可。鼻毛ですか? いえいえ、大丈夫、出ている筈がない。それでは何だろう。……襟、無い。髭、ほとんど無し。歯ですか? 歯の色が悪いのは仕方がないよ。それにそんなことを今更のように気にする娘じゃない筈だ。あの娘は心の痛みを知らないような娘じゃない。それでは何なのだろう? 判らない。眼を閉じて考える。判らない。もういちど眼薬を差す。意味無し。笑顔になる。気味が悪い。頭を搔き搔き考える。余計に髪はボッサボサ。咳払いをしてみる。ハッ、次の人が外で待っていたらどうしよう。私は急に不安になって御不浄を出ることにした。外から咳払いが聞こえてきたような気がしたからである。私は素早く元通りのアンニュイを装うと、鏡で確認し、用を足してもいないのに水を流し、十数えてから面倒臭そうに扉を開けた。そして気怠そうに、けれども、つい早足で彼女の元へ。そして、 

「なんだよ、君、鼻毛なんて出ていないじゃないか!」
「出ていないわよ。」
「でも、……でも君はさっき、言っただろう? 言ったよ、確かに。どうだい、言っただろう? え、君、認めなさいよ。」

 もはやアンニュイどころの騒ぎではなかった。私は大いに取り乱しながら、彼女への抗議の姿勢を崩さなかった。ここで引き下がってはいけない。私が弱いところを見せては、今後の附き合いにも支障を来すことになるのだ。私は強い男である。私は鼻からフンッと息を吐き出すと、続けた。

「君はね、さっき、僕に向かって、気になることがある、って言っただろう? あれは一体なんだったのだね?」
「ああ、あれ?」
「そうだ!」私は声を荒げて答える。
「あなた、自分のことを言われていると思ったの?」彼女は笑いながら、「あなたは本当に、自意識過剰ね。」
「自意識過剰、だって?」私は恥ずかしくなって、店を飛び出してしまおうかと考えた。失敗。醜態。恐ろしいことが起きてしまった。顔が熱い。私は苦し紛れに、
「ねえ、それって褒め言葉かい?」
「……きっとね。」彼女は溜息混じりに言った。そして、「それより見てよ。」と顎をしゃくって続ける。「あの席、少し不自然に感じない? あたし、このお店に入ったときから、ずっと気になってるのよ。ねえ、絶対に不自然よね?」

 彼女の視線の先には、その居酒屋のカウンター席があり、見ると、三人の女性が、和気藹々を通り越し、ちょいと知性を忘れた風に取り乱しながら、喋り合っている姿があった。

「別に普通、いや、……ああ、変だ。」私も気附いた。
「ね、変でしょう?」

 一見すると自然なのだ。よくある居酒屋での風景。しかしやはり変なのである。「違和感がある」と言えば、いちばん伝わるだろうか。彼女たちは三人の仲間同士で飲んでいる。しかし実際には、四つの席を使っているのである。端の席を荷物置き場として使っているのではない。四席の内、右から二番目の席だけ空いているのである。それなのに彼女たちは詰めようともせずに、それでも、仲が悪い風にも見えず、とにかく、ちょいと知性を忘れた感じに盛り上がっているのである。そう、あの空席が気になる。たしかに気になる。

「御不浄かしら?」彼女は言った。
「違うよ。」私は自信を持って否定した。「ここは男女兼用の個室がひとつ切りだもの。さっき僕が行ったときには誰も居なかったよ。」
「じゃあ、あの空席は、何?」
「あれは、きっと、……あ!」
「何よ、どうしたの?」
「判ったのだ、判ったのだよ。あの席が何故に空いているのか、……僕には全部、判っちゃった。」

 

 

 時、或る年の春。処、県立一宮南高等学校。

 例年通りに入学式が終わり、生徒がそれぞれの教室に戻ると、一年二組からは早速、キラキラと弾けるような笑い声が聞こえ始めた。キラキラの持ち主は四人の女子。中学は別々であったし、出席番号もバラバラ、好みの菓子や男性のタイプも全く別であるのに、それでも静電気や磁石のように、もしくは恋や青春といった見ることのできない不思議な力に吸い寄せられるかのように、四人は集まったのだった。ひとめぼれ、それに近い状態なのかも知れない。彼女たちは、その清らかな手を順に重ね合わせ、「青春万歳!」と叫んだ。そうしてここに仲良し四人組が誕生したのだった。

 四人組が誕生して、数週間後の或る日のこと。

「ねえねえ、」彼女たちの誰かが言った。「わたしたち、本名じゃない別の名前で呼び合わない?」
「それって、」別の誰かが言った。「芸名を付けるってこと?」
「そう。」
「面白そう。例えば、どんな?」
「妙案あり。」四人の中でいちばん元気そうな娘が手を挙げる。「わたしたち四人でしょう?」
「うんうん。」
「春夏秋冬よ。」
「なあに?」
「春子、夏子、秋子、冬子、そう呼び合えばいいのよ。それでね、」と、いちばん元気そうな娘は続けた。「わたしはちょうど、本当の名前が明子だから、秋を頂いちゃおうと思うの。いいかしら?」

 意義無し。その意見は、間も無く採用された。彼女たちは、春、夏、秋、冬、それぞれのお気に入りの季節で呼び合うことに決めた。結束が高まった。

 秋子は所謂リーダーだった。背も四人の中でいちばん高かったし、ほんの少しだけ美人でもあったから、四人の中で少しだけ特別だった。秋子は成績も優秀だった。いつもクラスで一番だった。なにかの計画を立てるとき、言い出しっぺはそれぞれだったけれど、最後に決定するのは秋子だった。四人は仕合わせだった。いつも一緒だった。毎日が愉しくて仕様がなかった。青春だった。毎日の、その全ての出来事が、愛おしい。たしかに青春。恋もした。喧嘩もした。ときどき悩んだりもした。そしてそんなとき、秋子は皆の相談役だった。

 或る日の放課後、
「ねえ、秋子。」と、春子は言った。
「春子、どうしたの?」
「皆がわたしのことを馬鹿にするの。」
「なにか言われたの?」
「ううん、言われてない。けれど、そんな気がする。」
「春子、あなたは人よりピュアなだけ。」
「それって、善いこと?」
「飛びっきり。」
「うれしい。」
「けれどね、ずっと苦しいと思う。春子は人のことが何でも判っちゃうから。」
「秋子、どうしよう?」
「大丈夫、わたしが附いてる。」
「うん、ありがとう。」

 また別の或る日、
「ねえ、秋子。」と、夏子は言った。
「夏子、どうしたの?」
「また振られちゃった。」
「そうだったの。」
「あたし、どうすれば振られない?」
「それには時間がかかるのよ。」
「なぜ?」
「あなたの周りに、あなたを理解してくれそうな人がいないもの。」
「どうすれば?」
「夏子はどうして恋人が欲しいの?」
「だって居ないと、なんだか淋しい。」
「ねえ、夏子。人は皆、同じだけの愛を持って生まれてくるの。」
「うん。」
「その愛を無駄にしてはいけないわ。」
「そうね。解る。なんとなく。」
「わたしと一緒に、学びましょう。聖書の語句を丸暗記するのではなくて、何故、聖書が存在するのか、それだけを考えていれば、いいと思う。」
「それでも淋しいときは?」
「大丈夫、わたしが附いてる。」
「秋子、ありがとう。」

 三人は、秋子に頼って生きていた。知りたいことがあれば、何でも秋子に尋ねた。正しい食事の在り方から、流行に囚われない本当のお洒落や、そんな生き方、様々な思想や逆説の面白さ、それらの手引き書の情報、秋子は何でも知っていた。他の三人は彼女に全てを預けていたと言ってもよい。秋子は、どんな悩みの相談にも乗ってくれたし、他の三人も、秋子の意見には、どこかしら一本筋の通っていることを認めていたので、時が経つにつれ、よりいっそう彼女に頼ってしまうのだった。「仲良し四人組」は、「仲良し三人と一人組」へと変わっていった。

 そして或る時、春子は、クラスメートの声を耳にした。

 アイツラ、秋子ノ召使イダヨナ。
 アア、他ノ三人ノ価値ガ判ラネエ。

「ねえ、わたしたちって、召使いなの?」春子は、夏子に言った。
「このままじゃ、あたしたち、馬鹿みたい。」夏子は、冬子に言った。
「ねえ、秋子。」と、冬子は言った。
「冬子、どうしたの?」
「秋子、あまり威張らないでもらえるかな。」
「わたし、そんなつもりは、……」
「あなたにそのつもりが無くても、皆、結構うんざりしてるの。」
「……ごめん。」
「謝る必要はない。でも、もう私たちに命令するのは止めて。」
「うん、そうする。ごめんなさい。」

 学年が変わり、別々のクラスになっても、三人と一人は仲良しだった。授業の合間には、三人と一人は同じ場所に集まり、同じ時間を過ごしていた。話題と言えば、修学旅行。

「わたし、砂丘見るの初めて。」
「わたしだって初めて。」
「クラスが違っても、行き先は同じだから、必ず四人で行動しよう。」
「うん、それはいい考え。」
「ねえ、秋子。」
「なあに、冬子。」
「いつだったか、私、あなたに酷いこと言った。」
「ううん、気にしてない。」
「ごめんなさい。」
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。……あ、ねえ、妙案あり。冬子、春子、夏子、……ごめんと言う代わりに、ありがとうって言うと、仕合わせが多くなると思う。だから、今日からは、ごめんを止めよう。ありがとうって言おう。」

「異議無し。」

 やっぱり四人は仲良し四人組。それは永久に変わらない。

 そんな或る日の晩、春子と夏子と冬子、三人の携帯電話がそれぞれの音で鳴った。相手は、秋子のお母さんだった。

 コンバンハ。娘ハ死ニマシタ。

 交通事故だった。突然の死だった。さすがの秋子もトレーラーには勝てなかった。現場の近くでは、捨てられたのであろう帰る先のない子犬が、尾っぽを振りながら、はっはっと、懸命に舌を冷やしていた。見知らぬ誰かが拾い上げる。秋子はその様子を見て、にこり微笑んだのだった。ひとつが生きて。ひとつが死んで。……

 三人は泣いた。わあっと大声で泣いた。躰を寄せ合って、力一杯に泣いた。彼女たちの誰かが、泣きながら言った。──

「……ねえ、ずっと一緒って、皆、……約束、しようよ。……約束。……四人は、……ずっと、いっしょだって、……約束しよう、ねえ。……妙案、でしょう? 修学旅行も、卒業したって、……大人になって、……結婚、それでも、皆、……約束しようよ、ねえ、いっしょ。……」

 他の二人は、異議無し、と声を揃えた。そしてまた、わあっと泣いた。

 気附くと側に、秋子のお母さんが立っていた。

 アリガトウ──ソレガ、アノ娘ノ最後ノ言葉ダソウデス。

 彼女は静かにそう言って、頭を垂れた。……

 

 

「……だから、あの席は空席なんかじゃあないのだよ。」私は溜息を吐いた。そして、「ずっと居たのだよ。秋子はずっとあの席にいる。……どうだい、君、……なんだか、彼女の笑顔が見えてこないかね?」

「そうだったの。」と、彼女は唇を開いた。眼には涙が溜まって、今にも溢れそうだった。

「そうだったの。」彼女は小さな声で、もういちど呟いた。例のカウンター席に眼をやり、ほうっと吐息を漏らす。そして沈黙。……

「ねえ、何か頂こうよ!」私は店内に響き渡るような大声を上げた。「そうだ。ねえ、君、葡萄のお酒を頂こう。美味しそうじゃないか。ほら、メニューにも美味しいって書いてあるよ。これはきっと驚くほど美味しいのだよ。」

 このときばかりは、珍しく、私も飲むことにした。酒の価値など全く理解できないのだが、こんなときである。やはり飲まずには居られなかった。

 ふたりの元に運ばれてきた葡萄のお酒は、今までに見たこともないような、綺麗な紫色だった。これはきっと、この世の中で最も高貴な色に違いない。こんなにも深い色を見たのは、生まれて初めてだ。

「仲良し四人組に、乾杯!」

 美味しい、と彼女は言った。私もゴクリと飲んでみる。うん、悪くない。

 随分回りくどいことをしてしまったが、この味によって、そして即席の空想によって、きっと彼女は私の醜態、鼻毛の一件についてなど、キレイサッパリ忘れてくれたに違いない。私は、どうやら面目を保ったようである。

 私は彼女の耳元で、ありがとう、と言った。
 彼女も私の耳元で、ありがとう、と言った。

 私は笑顔になってしまった。そんなことで嬉しくなってしまうのだから、私は既に酔っているのかも知れない。ああ、判ったぞ。酒の価値は、これか。へへへ。……照れ隠し。

 いやあ、それにしても、たかだか葡萄酒だからと言って馬鹿には出来ないね。彼女に合わせて、どんどん飲んでいたら、飲み過ぎた。とにかく酔った。酔って、酔ったから、ええと、その後のことは、……知らない。

 

 〈了〉


【解説】

よくある(?)居酒屋の風景。臆病で情けない男が面目を保つために、彼女に大きな作り話をする──というお話です。コメディですが、物語の中に二つの青春を詰め込んでみました。
これを書いた頃は古典的な日本文学にハマっていたので、漢字のチョイスが少し古かったり、「」の終わりにも句点を入れたり、言葉遣いも少し古風だったりします(トイレを御不浄と言っていたり)。
ちなみに、「妙案あり」や「意義無し」──は、若い娘が使ったら、可愛いと思うのですが、いかがでしょう?

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