七時五十八分

掌編小説

 七時五十八分、──勝った。今日も勝った。このところ負け無しである。もうそろそろ眼覚ましなど必要ないかもしれない。捨ててしまおうか。壁に投げつけてしまおうか。

 私は決して鳴ることを許されない哀れな時計の、その最も自慢のスイッチを切ると、枕元に用意してあった水を猛烈な勢いで飲みながら、独り悦に浸った。……やはり人間の能力は無限なのだ。計り知れない。機械などに脅かされることは永遠にないだろう。なにが眼覚まし時計だ。眼を覚ますのは、誰だ? 私だ。だいたいがお節介なのだ。大きなお世話なのである。人間は日の出とともに眼を覚まし、日の入りとともに眠りにつく生き物なのだ。機械なんかに邪魔をされてたまるものか! 全く以て、いまいましい!……いや、まあ、たしかにね、それにしては遅い起床ではありますよ。恥じ入るばかりでございます。──いやいや、それでも私は、この時計に勝利したのである。やはり人間は優れているのである。そもそも、眠る前に、あなたのスイッチを入れたのは、この私なのですからね。あなたは私がいなければ、チリンと鳴くことすらできないわけですよ、未来永劫。ああキラリ白星。涼しげに勝利。優勝。圧勝。完全制覇。向かうところ敵無しである。

 完膚無きまでの完璧とも言える勝利により、そして彼を蔑むことにより、精神的有利を得た私は、こうして素晴らしい朝を迎えることに成功した。

 本日は休日なり。

 私は直ぐに仕事に取りかかった。食事である。今朝はパンを食べようと思って昨夜の内に買っておいたのだ。私は無類のパン好きである。毎食パンでもいいとさえ考えている。しかしこう見えて健康には気遣っているので、週に一度で我慢している。ちなみに私は半分ベジタリアンみたいなものだから(だって格好いいだろう?)、夜には野菜しか食べない。食べません。あとは納豆にオクラを入れて食べるくらいだ。ああ、大葉とかキムチを入れても美味しいよね。……あとは、ワサビをちょっぴり入れましょう。……納豆はねえ、粒の大きなものが美味しいです。……黄色いパッケージの、アレは、……なんと言う名前だったかしら?……とにかく、それを食べる。話に戻る。パンは美味しいくせに、ただそれだけで、栄養が入っていないような気がするから、休みの日にしか食べないのである。それも朝。夜に炭水化物を体内に入れると大変なことになりますよ。朝の内に食べます。夜は野菜を、そして納豆を、……ああ、それはもう言った。

 パンを食べた私は、少しでも贅沢な気分を味わいたくなる。こう、雰囲気というのだろうか? 休日の持つ雰囲気である。そうだ、詩でも書いてみよう。

  あなたは裏切りません
  いつでもそっと現れるのです
  その麗しいばかりの身ごなしは
  私のさもしい心の内庭に
  ひっそりと紫色の花を咲かせました
  ねえ、その艶やかなる歌声で
  私をこの城から連れ出してくださいよ
  ああ、あなたこそは私の全て
  あなたは私の生きる所以なり
  今こそ我は天に叫ばん!
  あなたの名は、──休日

 阿呆か。しかしまあ、方向性としては間違っていないのだ。そう、休日の、あの贅沢な雰囲気を、私は演出したいのである。

 二度寝である。少しだけ躰をごろんと横たえてみる。たいして面白くもない。ううん、と伸びをした。変化なし。勢いよく寝返りを打ったら眼が回るかしら? 部屋の向こうまで転がれば、あるいは。……好奇心に留める。眠ろうと思ったが、眠くもない。背筋を鍛える。無理。あはは、と笑う。馬鹿みたい。時間が勿体ない。私は突然、殊勝な顔つきになると、読みかけの本をぱらりと、ゆっくり、勿体ぶったようにページを捲りながら、頭の中では、今度の旅は、どこへ行こう? やはり日本海が侘びしくて心に響くかしら? あの特急列車で販売していた透明な容器のお茶は、今でも売っているのかなあ?──などと全く別のことを考え、ふと我に返った拍子に、その手にした本の作者に申し訳ないと反省しつつ、また、さらには、私なんかに気遣われた作者が不憫にも思え、私は急に恥ずかしくなって本を閉じた。

 風呂である。やはり風呂だろう。今日は休みだぜ! 湯船にドプンと飛び込もう。チャンスだ、チャンス。最近、顔に吹き出物ができ始めたので、存分に汗を流したいのだ。そうすればきっと肌も清められ、それはもう赤ん坊のように、つるつるになるに違いない。もてちゃうかなあ。もてちゃうかもなあ。湯を張る。待つ。手持ち無沙汰に、先ほどの本を読み始める。途端、スイッチが入ったかのように、旅行のことが気になり始める。日本海を目指して列車に乗ったはいいものの、お金がそれほど無いことに気付いて、下呂あたりで下車するというのは、どうだろう? 間が抜けていて面白そうだ。その一部始終を小説にしてみたら?……ああ、駄目だ。それでは私の阿呆がばれてしまう。ああ、それだけは止めよう。恐ろしい。……

「お風呂が沸きました」明るく、無機質な声で、風呂が言った。

 私は嬉しくなって、ちょっぴり子供みたいな気分になる。へへへ、と不気味に笑い、予告通りにドプンと飛び込もうかと思うのだが、意気地が無い。意気地が無いことを認めるのが嫌だから、「ドプンは無いだろう、ドプンは」「子供じゃないのだからね」「おい、しっかりしなさい」などど、自身をたしなめてみる。私はペットボトルの安い水を持ち込むことにする。出かけるときには、少し高級な(外国産の)美味しい水を持ってゆくのだが、家では誰も見ていないのだから、安い水である。あまり美味しくない。でも、まあ、無害らしいので、それでいい。お世話になります。

 汗を噴出させたいのである。少々大袈裟に言ってしまったが、要は汗を大量に流したいのである。そうすれば、吹き出物の目立ってきた私の顔も艶やかになり、もてるのである。たぶんね。安い水を大量に飲んで、風呂に挑む。風呂の蓋は少しだけ捲っておいて、その隙間に躰を割り込ませる。悲しいねえ、ドプンどころか、飛沫も起こりゃしねえ。

 汗を流すには、三十分ほど待たねばならない。暇である。ああ、暇だ。風呂って暇だなあ。……時計を見る。二分しか経っていない。暇だ、暇だ、暇暇だ。ひひひひ暇だ。ひひ暇だ。「ひ」を連続して発声することが、思いのほか難しいことに気付く。私は、ひひひ、と、「ひ」の練習をする。上手くゆかない。何度も何度も繰り返す。私は日本一の「ひ」を発声したい。誰にも負けないように、ひひひ、と言いたいのです。たまに「へ」で練習する。どちらもかなり上達する。時計を見る。七分経っていた。ということは、私は、ひひひ、と、五分も頑張ったのだ。やれば出来る。これが努力というやつだね。涙が出る。美しいなあ。でも暇だなあ。それにしても、やっぱり暇だ。私はそっと湯船から出ると、軽く身体を拭き、例の本を持ってきた。こういう暇と感じるときにこそ、人間は勉強に励まねばならぬのである。人間とは、生きるという目的以外にも脳を使うことの出来る、たいへん優れた生き物なのだ。学べよ、学ぶのだ。今こそ学ぼう。この命尽きるときまで。水を飲む。そっと湯船に浸かる。本をひろげる。……眠くなる。今になって眠くなる。なんということだ。皮肉なものだ。人生なんてこんな皮肉の繰り返しだ。裏切りとも言える。あ、もしやこの眠気、……これは試練かしら? 天なる父が私に与えたもうた、試練かしら? 少し頑張る。私は本を眺める。……いっそのこと方向を変えて、修善寺あたりへ行ってみようかしら。どちらにしても温泉街が好ましい。あの侘びしい感じがたまらなくいい。電車に乗りたい。出来れば各駅停車の、のんびりと走る列車のほうが、趣があってよろしいのだが、私にはどうやら、せっかちなところがあるらしいので、特急列車を選んだ方が無難だと思う。無難? いや、無難ではないほうが自分自身の栄養になるのではないか? 旅の中での苦難を乗り越えた、あの達成感、──ああ、駄目だ。無理だ、無理。私には意気地が無いのだった。あはは。こんな駄目な私は、リトルワールドあたりで世界を回った気になるくらいが、お似合いなのだ。自動車を走らせれば、一時間ほどで到着。お手軽世界旅行である。……おい、電車は? そこは譲れませんよ。旅と言ったら、電車ですよ。車の運転なんてしていたら、集中できないじゃないですか、え、いろいろと。それに私は世界を旅したいわけでもないのだからさ、……やっぱり温泉街だよ。歴史を感じる街がいいなあ。あまり立派な旅館は避けよう。到着したときに大袈裟な出迎えがあると、恥ずかしくなってしまう。閉口します。私は人から頭を下げられることが大の苦手なのである。頭は下げなくていい。「いらっしゃい」と笑顔でそっと言ってくれればいい。そういった注文は受け付けているのでしょうか。ちょいと電話で問い合わせてみましょうか。ああ、無理だ。私は意気地無しでした。我慢しましょう。皆さん、盛大に出迎えてください。……

 時計を見ると、既に一時間以上が過ぎていた。きっと、つるつるだ。退屈な風呂とは、おさらばである。

 小説を書こうと思う。

 休日と言えば、小説である。小説を書くという作業は、まとまった時間を必要とするのである。休みの少ない私にとっては、まさに最高級の贅沢である。贅沢であり、その時間があまりに貴いものだから、いい加減なことは書けません。私という性質が足を引っ張り、なかなか、さっさ、とは書き進めることが出来ないのです。この気持ちがお判りになりますでしょうか。いや、どなたにも判りますまい。しかしこの気持ちを伝えてみたい。……そうだ、ためしに日記を付けてごらん。誠実な人であればあるほど、続きませんから。ああ、まさに、それ。

 しかし私は小説を書くのである。せっかくの休日だ。贅沢をしたいのだ。何を書こう。……何もないなあ。欠伸が出る。ストーリーを考えることが面倒だ。「ストーリーの無い小説だって、立派な文学だ」「いえいえ、最高のストーリーこそが、最も高貴なものですぞ」──格好いいなあ。そんな論争の出来る時代に生まれたかった。まあ、ね、そんなことは、どっちだっていいのだけれどね。私は新しい時代に生きているのだ。今になって、そんなことで争うひとたちは滑稽だ。「印象ですよ」読み終えたときに残った、その心の形、それが最も重要なのですよ。それ以外には何も要らない。……ああ、なんだか気持ちが沈んでしまった。どうして独りのときって、こうも暗いのだろう。人前では意味もなく、へらへらと笑ってしまうのに。……「よく笑う人ほど、よく泣きます」「悲しい人ほど、笑顔でいます」──はい、その通りです。だってね、泣いたりしたらね、周りの人が気を遣うじゃない? そうしたら、その気を遣わせていることが心苦しいものだから、いつも笑顔なのです。笑っているのです。悲しいときって泣けません。泣けませんよ。ああ、泣くものか! 悲しいときに泣けなくなった本当に悲しい人は、泣くときが無くなるでしょう? でも涙は貯まります。次から次へと、どんどん貯えられます。どうするのか。──幸福に満たされた、その瞬間に、わっと泣きます。嬉しいときに、わっと涙が出るのです。愛に満たされた、その、……欠伸が出た。恥ずかしい。真面目でいようと思えば思うときほど、不真面目な自分が顔を出すものであり、成功しようともがけばもがくほど、失敗するものである。何とかの法則である。恥ずかしさを誤魔化すために、窓の外に眼をやる。ああ、いい天気だ。眼を細める。……空って青いんだなあ。こんなの忘れかけていたなあ。ねえ、父さん、休日ともなると、なんだか空の色まで違って見えます。ひと味違いますよ! 空の青と、遠くの山の青の違いが、今の私にはハッキリと判るのです。やあ、手裏剣だ! 象! 蛇! 負け犬! 鯨だ! いやあ海老だね、あれは。伊勢海老だ。……雲の観察もたいへんに趣がございます。秋ですねえ。

 猫がにゃあと鳴いた。
 ああ、子供の泣き声でした。
 運動会の季節ですねえ。
 ああ、それで近所の小学校がうるさいわけですね。
 ストイックって、素敵な響き。
 四つ足! うむ、なかなかどうして。
 赤色のクリームソーダです。
 カタツムリとナメクジの違いについて。
 これで肩幅があればなあ。
 間八が食べたい。
 ぬるい茶など、飲めるか!
 ああ、惨めなヤドカリ。……駄目ですね。今日はさっぱり小説が書けません。

 ま、手紙でも書きましょうか。こう姿勢を正して、と。

 前略。いかがお過ごしでしょうか。その後、お変わりはございませんか。変わってねえよ。昨日逢ったばかりじゃねえか。あはは。馬鹿みたいだ。折角の休日なのに、手紙すら書けやしない。ああ、何もすることがない。しかし、……それでも、いいのである。なんだか理解できそうである。この何もない、ぽっかりとしていながら、どこかふんわりとした、この感じ。……ああ、もしかしたら、これこそが真の贅沢かも知れぬ。

 私はそっと眼を閉じて、神様に「ありがとう」を言った。その後、彼が微笑み返してくれたかどうかは、まあ、別の問題として、ともかく。──今、さらりと読み返してみたところ、どうやら本日も充実のいちにちだったようである。

 いいなあ。休みって、いいよ。

 来週は、七時五十七分を目標にしてみようと思う。

 

 〈了〉


【解説】

お調子者の休日(朝〜お昼頃まで)です。彼は、自身が目覚まし時計にセットした時刻よりも早くに目を覚ますことで調子付くのですが、……まあ、解説も何も、といった感じです。他人の大真面目って、側から見ると滑稽ですよね。彼のアタオカっぷりを笑って下されば幸いです。
これを書いた頃は、勢いだけで一気に書き上げるスタイルでした。

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