カイト

掌編小説

 昨日、空を飛んでいたら、いつも以上にいい気分で、自分でもビックリしてしまいました。こんなことって、あるんですね。わたしは神様を信じます。

 父が天国へと旅立ってから、すぐに母が癌になりました。乳癌だそうです。いちどは治まって安心したのも束の間。再発ですって。転移。お医者様の言葉を信じていないわけではないけれど、わたし、母は治らないんじゃないかって思います。きっと再婚したのがいけなかったのよ。わたし、新しいお父さん、大嫌い。うだつが上がらない下っ端の演歌歌手。なによ、演歌って? 民謡なら理解できるけれど、そんな、演歌だなんて。……でも仕方がない。いろいろと仕方がない。だから昭彦さんが振り向いてくれないことだって、最近では仕方のないことだと思えてきました。でも、それにしたって、どうしてちっとも振り向いてくれないのかしら。わたしはそんなに嫌な女? いいえ、違うわよ。違うでしょう? だって、あなたは言いました。君を仕合わせにするのは俺だからって、あなたは確かに言いました。知ってる。きっと嘘。馬鹿みたい。少しずつ何かがずれてて、最近ちっとも面白くない。面白くない。面白くない。

 入園式の日は寒かった。わたしはずっと泣いていました。どうして泣いていたのだっけ? 覚えていない。ただ、母が周囲の人々にぺこりお辞儀を繰り返しながら、わたしの手を四度ばかりキュッとつねったことは覚えています。痛かった。ううん、手じゃないの。痛かったのはこの辺り。胸の奥のほうがキュウッと締め付けられて、とても痛く、苦しかった。わたしその頃から母が憎かった。わたしの気持ちなんてこれっぽっちも気にかけてくれなかった母。彼女はいつでも自分が人からどう見られているか、それだけを気にしていました。恥ずかしい。格好悪い。それが母の口癖。この子が。この子が。この子がねえ、もう少し。……口癖。

 わたし、絵を描くのが大好きでした。水彩画が好き。あの絵筆が画用紙の上に色を重ねるときの音、ショッ、ショッ、それが好き。遠くの空から色を付けてゆきましょう。色があるのか、ないのか、それが判らないくらいに透明な色の空。ショッ、ショッ。山が見える。その頂きには白。麓に広がる緑。幸福に溢れた山々。シアワセ山脈。ああ、あの山まで飛んでゆきたい。あそこへゆけばきっと全てが解決するのね。ショッ、ショッ。ねえ、どうしてわたしの描いた絵に色を足してしまうの? それはわたしの絵なのよ。いいじゃないの、嘘を描くくらい。あなただって嘘吐きでしょう? あーあ、せっかく綺麗な緑色だったのに。わたしの好きなブルーグリーン。いえ、グルーブリーン?……ねえ、わたしはいったい、誰?

 わんわん。わたし子供の頃から犬が大好き。大の犬好き。自分を押し殺して、可哀想なくらいに我慢強いところが好き。だけれど散歩は嫌い。なによ、好き勝手に走り回って。好き勝手に吠えて。可愛い顔をしてわたしに恥をかかせないで。やめて。皆がこっちを見てるじゃないの。恥ずかしい。格好悪い。ごめんなさい、わたし嘘を言いました。ほんとうはわたしは犬が嫌い。ほんとうは母は、……

 現在、青木川上空。へえ、これでも一級河川なのね。なんとかっていう政治家とおんなじね。肩書きは何よりも大切です。

 テニス部に入りたかった。スカートがひらり。無防備。ひらり。弱いところを見られながら、それでも戦い続けなければならないところが、とっても可憐です。ひらり。ひらり。わたし、ああしてスカートをひらりとさせたかった。注目されたかった。転んでも皆が助け起こしてくれるなんて素敵だわ。まるでお姫様になったみたい、……でしょう、Kちゃん? わたし知っています。放課後の教室。Tくんと。わたしの憧れのTくんと。でも仕方のないこと。ハンドボール部では勝てっこありませんもの。わたしの膝小僧だって随分と擦り剥けたのにね。さらばTくんよ。さようなら初恋の人よ。わたし、あなたの前でスカートをひらりとさせたかった。わたしだって教室で!……如何せん、叶わぬ夢となりました。残念無念。Tくんにご忠告申し上げます。もう二度とわたしの前には現れないで。

 どうやら惚れっぽいみたい。見つめられるだけでぽうっと頭の中が真っ白になってしまいます。愛してる、カチッ、その言葉が全てのスイッチ。気付けばわたしは全てを許しているのです。花の一生。いつもおんなじ。同じことの繰り返し。あなたはわたしの裸が欲しいの? そういうわけじゃねえよ。どうしてすぐに求めてくるの? だって仕様がねえよ、俺はお前を抱きてえんだ。(頭の中が真っ白になる)服は脱がなきゃ駄目? 裸のほうが気持ちいいだろう? それはそうだけれど。だろう? いろいろとしなくちゃ駄目? どういうことだよ? わたし、裸で抱き合ったままジッと動かずにいるほうが好き。そんなの面白くねえよ。そうなの? 愛してる。カチッ。そうしてわたしはまた全てを許してしまうのです。そして季節が変わります。捨てられる。わたしは神様なんて信じません。メラメラと燃えさかる炎。わたしは地獄の入り口を見る。

 へえ、君も絵を描くの? そう、僕も水彩画が大好きなんだ。ああ、昭彦さん! 昭彦さん! 昭彦さん! どこからが緑色で、どこまでが青色か、あなたはそれを知っている。わたしは理想の人が現れたと皆に言って回りました。お似合いのふたり。五年間の交際を経て結婚。祝福。幸福な毎日。そう、きっと、ここはあの山。万歳三唱。シアワセ山脈。頂の白。麓の緑(嘘を描くのはおやめなさいって)。コウノトリ。まあ、玉のような男の子ですって? どれどれ、我が子の顔を早く見せて。いやだ、玉だなんて嘘ばかり。しわくちゃのお猿さん。でも遠くのほうから眼を細めて眺めれば、眼もとが誰かに似ています。昭彦さんとは別の、誰か。……おや、数週間で赤ん坊らしくなりました。泣き顔はわたしの小さな頃にそっくり。わたしの子供時代の写真と言えばこんな顔のものばかりですから、馴染み深いというのか、嫌だわ、この懐かしい感じ。スコシダケアナタガキライニナリマシタ。そうね、名前は「カイト」にしましょう。あなたはいつでも宙ぶらりん。だってわたしの子供なのだから。

 大切に、大切に育てましょう。わたしにとってはあなたが生き甲斐。あなたが唯一。安心してくださいね、わたしはあなたを苦しませたりしません。あなたの食べるものは全てわたしが与えます。あなたの着るものはわたしが素敵なものを選んであげる。あなたの遊び道具はわたしが楽しいと思うものを。あなたの読む本はわたしが読んで選びます。あなたの遊ぶ友達はわたしが決めます。人に聞かれて恥ずかしくない学校を出ましょうね。立派な会社に入らなきゃ。恋人ができたら必ず連れていらっしゃいね、あなたにお似合いかどうかちゃんと判断してあげる。心配しなくていいのよ、わたしは手をつねったりしないから。何が起きてもあなたのせいにはしないから。ねえ、聞いてる? わたしはこんなにも一生懸命なのに。ねえ、それなのに、どうして、どうしてあなたはわたしの言うことを聞いてくれないの? あなたは欺されているのよ。あなたのいう自由は本物ではないのよ。カイト! カイト!……ああ、耳が痛い。

 皆に理解してもらうために生きているのじゃあない。だったら嘘を吐いていればいい。毎日少しずつの嘘。いちにち三回。三日で九回。いっしゅうかんで、いちねんで、……なによ、嘘を吐くくらい。そのくらいのこと。それで上手くゆくのであれば嘘を吐くなんて簡単なこと。だって理解なんて必要ないのだもの。……嘘。今のが本当の嘘。わたしはみんなに理解されたい。嘘吐きのわたしでなくて本当のわたしを知って欲しい。愛してほしい。

 愛してる。カチッ。何故、わたしの前に現れたの、Tくん?……違う、あなたは昭彦さん。いいえ、違わない。わたしね、同じ人だとは思わなかったの。あなたとTくんが、……そう、そうね、たしかに全くの別人よ。名前も違えば、顔も違う。身長も。体重も。血液型も違う。出身地も違う。好きな食べ物。好きなお酒。煙草の銘柄。あのときの声。癖。口癖。恥ずかしい。格好悪い。お前が。お前が。お前がなあ、もう少し。……口癖。別人なのに同じ人。少しも違わない。皆おんなじよ。わたし以外の人は皆おんなじ。ここから、わたしのいるここから一歩でも飛び出せば、眼に映る人は皆カイト。カイト。カイト。皆おんなじだ。わたしの子供たち。カイト! カイト! カイト! 愛しいあなたたちにご忠告申し上げます。もう、二度と、わたしの前には現れないで!

 ああ、それなのに、あなたは、……

 すべて夢のお話ですよ。

 わたし、夢を見たんです。

 最後にあなたは言いました。

「俺といっしょに死んでくれ」

 すべて夢のお話です。

 

 〈了〉


【解説】

これは自分の中で上手くいった作品です。とある女性の独り語り風の作品で、ノンストップで一気に書き上げました。彼女の言う『カイト』とは誰(何)なのか?──その辺りを楽しんでいただければ、と思います。

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